2016年5月24日火曜日

路地の裏にも3年







みなさんコーヒーはお好きですか?
僕は好きです。
近頃、一人で消化するには多すぎるほど豆を買いすぎたので日に2度コーヒーを淹れてます。








小学生くらいの頃、親がコーヒーメーカーで淹れたコーヒーを飲んでいました。
ペーパーをセットして粉と水をいれスイッチを押す。
その作業が面白くてよくやらせてもらっていました。
「ずずずずずー、ゴポゴポ、ポタポタポタ」
といいながらサーバーにコーヒーが溜まっていくのを眺めることが大好きでした。



中学生の頃「大人っぽいことしたい」と思ってインスタントコーヒーを飲み始めました。
初めはクリープと砂糖を入れて甘くしたものを飲んで
それに慣れてくると砂糖だけをいれて
中学校を卒業するころにはブラックコーヒーが飲めるようになりました



コーヒーメーカーの味に慣れたころ
しばらくして自分でもハンドドリップで淹れてみようと思い
見よう見まねでハンドドリップをやり始めました
初めて自分で淹れたコーヒーの味を今でも忘れることはありません、、、
と、わざわざ書くくらいだから、普通ならそうなのかもしれませんが
全く覚えていませんし、そもそもいつからハンドドリップを始めたかなんて覚えていません
まぁ、たぶん10年くらい前から淹れてるかと思います








自分が淹れていた味がおいしかったどうかは覚えてませんが
ここ3年くらいで、自分が淹れるコーヒーの味に自信を持てるようになりました
それは3年前に出会った店のおかげです






3年前の今日、2013年5月24日
大阪の中心から少しはずれた路地裏に小さな喫茶店ができました
自家焙煎珈琲 喫茶 路地です
この店でコーヒーについていろんなことを教えてもらいました
色んなコーヒーの種類、味、深み、(ほんとうの)酸味
路地のおかげで、というよりも、路地のせいで舌が肥えてしまい
今まで飲めてたコーヒーが「あれ、、、おいしくない。」と思うようになってしまいました







ありがたいことに、何度か一緒にイベントに参加したり企画したり
はたまた代理店長をやらせてもらったり親しくさせてもらっています
ただ、自分はお客さんなのかなんなのかわかりにくくなる時がありました
代理店長などをやっている自分の立場が曖昧になってしまってました
店に行くときはいつもコソコソをしています




個人的にカフェとかバーで店員が常連さんばっかりとずーっとベタベタ喋ってるのは
時と場合を選ばないとあんまり良くないんじゃないかなと思ってました
特に路地ではあんまりそういう風にはしたくないなと思いました




路地にはざっくりいうとコーヒーしかありません
お客さんはコーヒー飲みにきてる人達ばかりなのです
一度行ったことがある人ならなんとなくわかると思いますが
お尻から根が生えたようにぼーっとする事ができる場所です
気づいたら30分はすぎてしまってます
大正時代の建物なので店に入ると時空が歪んでしまうのだと思います



喫茶店やバーで支払うのは飲み物の値段ではなく非日常な空間に入る入場料なんです
ディズニーランドやUSJと一緒でアトラクションの代わりにコーヒーやお酒があるのです
そんな中で店長とぺちゃくちゃおしゃべりするとどうでしょう?
せっかく歪んでいた非日常の空間が元の日常に戻ってしまいます
それを僕は壊したくないのでいつもコソコソを店に行くのです






3年間お店を続けるのは大変だと聞きます
ありきたりですが「もう3年!」とも「まだ3年?」とも感じます
コソコソと路地に通い3年、
ずっと変わらないようにみえるけど、何かが変わったようにも見えます



“石の上にも三年” “路地の裏でも三年”



「もう10年!」「まだ20年?」と思えるようになってほしい場所です。
3周年おめでとうございます。



2016年5月17日火曜日

ウォーホルとバンクシー、そして円空

ポップアートの王様アンディ・ウォーホル
イギリスのストリートアーティストバンクシー
二人とも多少の技術をようするけど
比較的むずかしくない技法で表現しています





ウォーホルといえばシルクスクリーンを使って
キャンベルスープやマリリンモンロー、エルビス・プレスリー等
ウォーホルが「イイね!」と思ったものを題材に作品を作っています





一方バンクシーはステンシルを使いスプレーで壁に描いたり
作品自体に社会風刺的なメッセージをもたせています
そして顔やプロフィールを公表しないでゲリラ的に街に作品を作って活動しています











ウォーホルの作品もバンクシーの作品も誰でも似たものを作る事ができます
「絵を模写する」といったレベルのものじゃなく
型さえ作ってしまえば一目で見分けることが困難なほど似た作品を作れます




現存してるアーティストの贋作を完璧に作れたら
その人は大金持ちになれるかもしれないし
作風をパクられたアーティストは憤慨するでしょう
でも、この二人の作品をいくら完璧に作れたとしても意味はあるのでしょうか?



ウォーホルの代表作である「flowers」は色んなパターンで何十枚(何百枚?)も刷られています
そのなかでウォーホルが自分で刷ってないものは何枚あるでしょう?
そしてウォーホルが刷ってなかったとして、そこにどんな意味があるでしょう?
ウォーホル自身も「コピーを作ってもらって楽だからいい」という風な事を言っています



バンクシーにしたってそうかもしれません
同じ作品を自国だけじゃなく、世界中の壁にかかれていたらどうでしょう
そもそも誰も本人の顔を知らないのだからそれが模倣品であるかどうかはわかりません
コレクターにとっては本人の者だと価値がありますが
それ以外の人にとってはただのラクガキにしかなりません
ただ、そこに含まれるメッセージはコピーではなく本物と何もかわりません



ウォーホル、バンクシーの2人の作品に少しでも関わってしまった途端に
2人の渦中の中に引き込まれてしまっているのです
2人の作品に共通するのは

・誰でもできる方法で
・作品に特徴はあれどそのムラはなく大量生産できて
・作品の技法に価値があるのではなく、そのコンセプト・メッセージに価値がある

ということ










そこでふと思ったのが「円空の仏像も同じなのでは?」ということです



円空とは江戸時代の仏師で生涯に12万体の仏像を彫ったと言われています
粗いコケシのような木彫りの仏像ですが
北は北海道から南は三重まで、各地に存在するその仏像は
全てとても穏やかな笑みを浮かべています







鉈でけずったような粗い仏像なので
ちょっとした技術があれば誰でもどこでも作る事ができます
一目で誰が作ったかわかる特徴のある仏像で
その捉えどころさえ押さえればすぐに彫ることができます



いくらなんでも一人の人間が12万体もの仏像を彫ることができるでしょうか
ずーっと同じ場所にいるならまだしもいろんな場所に存在します
例えば1日10体彫れたとして毎日休まず彫り続けたとしても32年かかります
円空本人が一人で12万体全部彫ったと考えるより
見分けのつかない贋作がたんさんあると考えた方が納得がいきます



そして例え贋作であろうと仏像であるということには変わりません
昔は仏像拝む対象であり難しい経典を読むことができない人のために作られたものなのです
いわば仏像は仏の教えを具現化したものなのです
円空が彫っていようがいまいが、その教えの意味はかわりません
もしそれが本当だとして円空は怒るでしょうか
むしろ自分の意志が仏をとおして多くの人に広まっている事に喜んでいるのではないでしょうか






この3人の行っていることが
「作品を通しメッセージを発信している」
ということだとするなら3人ともに共通していることなんじゃないでしょうか

この考えが本当であったとしても3人とも何も思わないし何も変わらないでしょうね