2016年5月17日火曜日

ウォーホルとバンクシー、そして円空

ポップアートの王様アンディ・ウォーホル
イギリスのストリートアーティストバンクシー
二人とも多少の技術をようするけど
比較的むずかしくない技法で表現しています





ウォーホルといえばシルクスクリーンを使って
キャンベルスープやマリリンモンロー、エルビス・プレスリー等
ウォーホルが「イイね!」と思ったものを題材に作品を作っています





一方バンクシーはステンシルを使いスプレーで壁に描いたり
作品自体に社会風刺的なメッセージをもたせています
そして顔やプロフィールを公表しないでゲリラ的に街に作品を作って活動しています











ウォーホルの作品もバンクシーの作品も誰でも似たものを作る事ができます
「絵を模写する」といったレベルのものじゃなく
型さえ作ってしまえば一目で見分けることが困難なほど似た作品を作れます




現存してるアーティストの贋作を完璧に作れたら
その人は大金持ちになれるかもしれないし
作風をパクられたアーティストは憤慨するでしょう
でも、この二人の作品をいくら完璧に作れたとしても意味はあるのでしょうか?



ウォーホルの代表作である「flowers」は色んなパターンで何十枚(何百枚?)も刷られています
そのなかでウォーホルが自分で刷ってないものは何枚あるでしょう?
そしてウォーホルが刷ってなかったとして、そこにどんな意味があるでしょう?
ウォーホル自身も「コピーを作ってもらって楽だからいい」という風な事を言っています



バンクシーにしたってそうかもしれません
同じ作品を自国だけじゃなく、世界中の壁にかかれていたらどうでしょう
そもそも誰も本人の顔を知らないのだからそれが模倣品であるかどうかはわかりません
コレクターにとっては本人の者だと価値がありますが
それ以外の人にとってはただのラクガキにしかなりません
ただ、そこに含まれるメッセージはコピーではなく本物と何もかわりません



ウォーホル、バンクシーの2人の作品に少しでも関わってしまった途端に
2人の渦中の中に引き込まれてしまっているのです
2人の作品に共通するのは

・誰でもできる方法で
・作品に特徴はあれどそのムラはなく大量生産できて
・作品の技法に価値があるのではなく、そのコンセプト・メッセージに価値がある

ということ










そこでふと思ったのが「円空の仏像も同じなのでは?」ということです



円空とは江戸時代の仏師で生涯に12万体の仏像を彫ったと言われています
粗いコケシのような木彫りの仏像ですが
北は北海道から南は三重まで、各地に存在するその仏像は
全てとても穏やかな笑みを浮かべています







鉈でけずったような粗い仏像なので
ちょっとした技術があれば誰でもどこでも作る事ができます
一目で誰が作ったかわかる特徴のある仏像で
その捉えどころさえ押さえればすぐに彫ることができます



いくらなんでも一人の人間が12万体もの仏像を彫ることができるでしょうか
ずーっと同じ場所にいるならまだしもいろんな場所に存在します
例えば1日10体彫れたとして毎日休まず彫り続けたとしても32年かかります
円空本人が一人で12万体全部彫ったと考えるより
見分けのつかない贋作がたんさんあると考えた方が納得がいきます



そして例え贋作であろうと仏像であるということには変わりません
昔は仏像拝む対象であり難しい経典を読むことができない人のために作られたものなのです
いわば仏像は仏の教えを具現化したものなのです
円空が彫っていようがいまいが、その教えの意味はかわりません
もしそれが本当だとして円空は怒るでしょうか
むしろ自分の意志が仏をとおして多くの人に広まっている事に喜んでいるのではないでしょうか






この3人の行っていることが
「作品を通しメッセージを発信している」
ということだとするなら3人ともに共通していることなんじゃないでしょうか

この考えが本当であったとしても3人とも何も思わないし何も変わらないでしょうね



0 件のコメント:

コメントを投稿